日本語ラップが一気に花開いた1990年代。MCバトルブームやBADHOPなど人気ラッパーの台頭で一気にシーンが大きくなった2010年代。
その分かりやすい両時代に比べ、あまり語られることのない2000年代という時代。今のシーンに直接つながる重要な時代にもかかわらず、最近日本のヒップホップに興味をもった方には理解しづらい時代かもしれません。
この記事では、そんな日本のヒップホップの2000年代について解説していきます。
2000年代の前半/後半でくっきり時代の流れが変わったので、そこを柱にして解説しようと思います。
膨大なトピックから本当に大事なポイントにしぼって解説するので、まずはここを押さえるところから始めてください。
現在のシーンで活躍している数々の中心人物が台頭してきた時代なので、ここを理解しておくと今のシーンをもっと深く楽しめると思います。
目次
2000年代前半(2000年〜2004年)

この時代で重要なトピックは大きく分けて2つです。
①日本語ラップのメジャー化
「Dragon Ash - Grateful Days featuring Aco, Zeebra」(1999年)の大ヒットを受けてメジャーレーベルから多くのヒップホップグループがデビューし、ヒットチャートにヒップホップの楽曲が入るのが当たり前の時代になりました。
いわゆる「ヒップホップバブル」と呼ばれた、日本語ラップがメジャーフィールドに進出した時代です。
TVや街中など至るところでラップの曲が流れ、普段ヒップホップを聞かない学生も放課後カラオケでラップの曲を歌っていた。そんな時代が2000年代前半でした。
②「メジャー」vs「アンダーグラウンド」
2つ目のトピックは、①のような流れにのった「メジャー側」と、ハードコアな姿勢と音楽性を追求した「アンダーグラウンド側」の対立です。
2000年代後半にも深く関係してくるこの図式は、この時代を理解する上では欠かせません。よって、「メジャー側」と「アンダーグラウンド側」それぞれのカテゴリーで活躍したアーティストを紹介した上で、最後にこのトピックの解説をしたいと思います。
メジャー側
日本でラップの曲が売れに売れ、空前のブームになった2000年代前半。
そんな中でもひときわ売れたのが、“KICK THE CAN CREW(キックザカンクルー)”と“RIP SLYME(リップスライム)”、“SOUL'd OUT(ソウルドアウト)”という3組のヒップホップグループと、「Grateful Days」のヒット以降もヒップホップ路線を継続した“Dragon Ash(ドラゴンアッシュ)”の計4組でした。
KICK THE CAN CREW
KREVAが所属するグループとして、今でも活動中のKICK THE CAN CREW(キックザカンクルー)。
この3MCグループは、1997年からのインディー活動を経て、2001年5月にシングル曲「スーパーオリジナル」でメジャーデビュー。
「クリスマス・イブRap」、「マルシェ」、「アンバランス」と3曲連続オリコンTOP10に入る大活躍をみせ、2002年末には「NHK紅白歌合戦」にも出場しました。
まだまだ人気の落ちない最中の2004年6月に活動を休止。以降、ソロとなったKREVAは2000年代後半にメジャーフィールドで最も活躍したラッパーとなります。
その後長い空白期間を経たのち、2017年にグループ活動を再開しました。
RIP SLYME
KICK THE CAN CREW以上のセンセーションを引き起こしたのが、RIP SLYME(リップスライム)でした。
当時4MC +1DJの5人組グループだったRIP SLYMEは、90年代のインディー活動を経て2001年にメジャーデビュー。
「One」や「楽園ベイベー」などのヒットシングル曲が入った、2002年のメジャー2ndアルバム「TOKYO CLASSIC」がオリコンチャート初登場1位を記録するなど100万枚にせまる特大ヒット。
2003年発売の3rdアルバム「TIME TO GO」もオリコンチャート1位を飾ると、同年7月には野外に5万人を動員したライブ「SUMMER MADNESS '03」を国営昭和記念公園で開催。この日本のヒップホップ史上最大の動員を記録したライブのチケットは即日完売。追加分も含めて5万2000人を集めました。
日本のヒップホップアーティストとして初の「日本武道館」公演を行うなど、これまでの記録を大きく更新しまくったのがRIP SLYMEでした。
日本語ラップ随一のパーディーラップ・グループとして、メンバーの脱退などもありながら現在でも精力的に活動しています。
SOUL'd OUT
2MC +トラックメイカーの3人組ヒップホップグループ、SOUL'd OUT(ソウルドアウト)。
2003年に「ウェカピポ」でメジャーデビューすると、いきなり同曲が日本レコード大賞ゴールドディスク受賞など大ヒットを記録しました。
「ウェカピポ」とは、“Wake Up People(ウェイクアップ・ピープル)=目を覚ませ”の発音をカタカナ表記したものです。
天性の声にリズム感、そして唯一無二のメロディーセンスを持つMCの“Diggy-MO(ディギー・モー)”を中心にしたこのグループは、2000年代の日本を席巻。
リリースする曲は常にヒットチャートに入りつづけ、2007年には「日本武道館」公演をおこなうなど、長期にわたって変わらぬ人気を誇りました。
その後2014年に解散をしましたが、いまだに復活を待望されるなど、多くの人の心に残る唯一無二のグループでした。
Creepy NutsのR-指定がファンを公言しているグループでもあります。
Dragon Ash
1996年に結成し現在も活躍中のミクスチャーロックバンド、Dragon Ash(ドラゴンアッシュ)。
リーダーでボーカル、ギターを担当する降谷 建志(通称Kj)を中心としたこのバンドは、もともとはパンクロックを主体にしたスタイルでした。そのDragon Ashがヒップホップに接近したのが1999年のこと。
ヒップホップ要素を取り入れた4thシングル「Let yourself go, Let myself go」が70万枚を売り上げブレイクしたこのバンドは、それ以降もさらにヒップホップ色の強い楽曲を次々とリリースしていきました。
5thシングル「Grateful Days」、6thシングル「I LOVE HIP HOP」を同日リリースしさらに勢いにのると、1999年7月リリースの3rdアルバム「Viva La Revolution」が約180万枚の大ヒットを記録。
2000年に入ってからも7枚目シングル「Deep Impact」では、ヒップホップグループの“ラッパ我リヤ”をフィーチャリングして70万枚の大ヒット。
降谷 建志(以後Kj)はDragon Ashとしての活動以外にも、RIP SLYMEのILMARI(イルマリ)らと組んだ4人組ユニット“Steady&Co.(ステディ・アンド・コー)”でも活躍。“春夏秋冬”などのヒット曲を生んでいます。
2001年、2002年とリリースの度にヒットチャートの上位に食い込むなど、快進撃をつづけたこの時期のDragon Ash及びKj。
1999年〜2002年に限定するなら、もっとも売れたヒップホップアーティストは降谷 建志(Kj)だったという見方も出来るのです。
しかし、2002年の秋にKjとヒップホップとの関係を終わらせる大事件が起きました。それについては後ほど解説します。
その他
他にもこの時期にメジャーシーンで活躍したラッパーはいます。
「Def Jam Japan」初の作品として15万枚以上のセールスを記録した、8人組ヒップホップグループの“NITRO MICROPHONE UNDERGROUND(ニトロ・マイクロフォン・アンダーグラウンド)”。
NITROのメンバーである“DABO(ダボ)”はその後、第1号アーティストとしてDef Jam Japanと契約し、ソロとして多数の作品をリリースしました。
熊本をレペゼンするヒップホップユニット“餓鬼レンジャー(がきレンジャー)”も2001年にビクターエンタテインメントよりメジャーデビュー。
メジャー1stアルバム、2ndアルバムと続けてオリコンTOP20入りするなどの活躍をみせました。
アンダーグラウンド側
Zeebra、BUDDHA BRAND、TWIGYなど、90年代から活躍する重要人物たちが名作アルバムをリリースした2000年。
彼ら90年代をリードしてきたハードコアラップ勢に影響を受けてラップを始めた世代が、2000年代前半アンダーグランドシーンに新風を巻き起こすことになります。
それが「日本語ラップ奇跡の世代」「78年式」と呼ばれている、1978年生まれの才能豊かなラッパー達の台頭です。
なかでもこの時代にインパクトを残したのが、MACCHO、TOKONA-X、漢(現・漢 a.k.a.GAMI)、般若の4名でした。
MACCHO
そんな78年式のラッパーの中でも最も早く台頭したのが、OZROSAURUS(オジロザウルス)のラッパー、「ハマの大怪獣」こと“MACCHO(マッチョ)”です。
14歳からラップを始めたMACCHOは、高校生の頃にはTVや雑誌に取り上げられるようなラッパーでした。
DJ SN-ZとOZROSAURUSを結成したMACCHOは2001年に1stフルアルバム「ROLLIN'045」をリリース。名盤中の名盤として現在でも聴きつづけられるこのアルバムでOZROSAURUSがシーンに持ちこんだのは、ラッパーが“自分はどの土地を代表しているのか”を示す“レペゼン”という概念でした。
2000年代という時代は、それまで東京一局集中状態だったヒップホップシーンが地方へ広がっていった時代でもありました。
熊本をレペゼンした“餓鬼レンジャー”、仙台に留まりながら名盤を出した“GAGLE(ガグル)”、大阪からは“韻踏合組合”が台頭、そのなかでも盛り上がっていたのが、“TOKONA-X”を中心とした東海のシーンでした。
TOKONA-X
そして2004年に26歳の若さで急逝した伝説のラッパー“TOKONA-X(トコナエックス)”。東海のシーンを代表したこのラッパーも2000年代前半に華々しい活躍をした78年式のラッパーです。
“ILLMARIACHI(イルマリアッチ)”や“M.O.S.A.D.(モサド)”での活動で、全国区のラッパーとなったTOKONA-X。
そんなTOKONA-Xが「Def Jam Japan」と契約して2004年にリリースしたのが、アルバム「トウカイXテイオー」 とシングル「「知らざあ言って聞かせやSHOW」でした。
彼はこの名盤を残した2004年末に、夏からかかっていた熱中症による体力低下により死去しました。
伝説のラッパーの残したものは決して過去の物ではなく、DJ RYOWや ¥ellow Bucksなど世代を超えた東海のプレイヤー達が引き継いで現代に残しています。
漢
「仲良しこよしばっかりだった業界に 豪快に殴りこみをかけた2000年初頭」と語る漢(現・漢 a.k.a.GAMI)の登場は、ストリートのリアルを新たな次元に進めるものでした。
「B BOY PARK 2002」のMCバトル決勝で戦った般若と共に、この時期の現場を荒らしまわっていた漢。
そんな漢が率いるヒップホップクルー“MSC(エムエスシー)”は、様々なアウトローやアウトサイダーがうごめく新宿のドロドロとした世界を歌い、シーンに衝撃を与えました。
2003年にリリースしたMSCの1stフルアルバム「MATADOR」。このアルバムが“日本初の本格的なギャングスタ・ラップ”との評価を受けています。
般若
そんな漢よりもいち早く東京で暴れまわっていたのが、般若です。
当時の般若は、世田谷区三軒茶屋を拠点に結成されたヒップホップグループ“妄走族(もうそうぞく)”のメンバーでした。
妄走族といえば、過激な楽曲の数々と、他人のライブに乗りこみマイクをジャックする「カチコミ」スタイルで物議をかもしていたグループです。
なかでも般若の存在感はきわ立っていて、漢率いるMSCと共に新たなストリートのあり方を提示していきました。
「メジャー」vs「アンダーグラウンド」
2000年代前半の日本のヒップホップ界は「メジャー」でヒットチャートをにぎわせ、「アンダーグラウンド」サイドも新世代の新たな才能が台頭するなど豊かなものでした。
しかし、その両者が交わることは決してなく、高い壁で断絶されていました。
その原因は当時のヒップホップシーンにあった考え方、風潮にありました。それは以下のようなものです。
10代、20代のヒップホップファンの方には理解不能なものばかりかもしれません。でも本当にこんな考え方、風潮がまかり通っていた時代があったのです。
そしてファンがこのような考え方に染まった大きな原因が、「アンダーグラウンド側のラッパー達」がこぞって「売れているラッパー達」を執拗に攻撃したからです。
特に槍玉にあがって攻撃されたのが、「RIP SLYME」「KICK THE CAN CREW」「Dragon Ash(Kj)」「SOUL'd OUT」です。
当時のヒップホップファンの中では↑の曲を聞くことは半ばタブーとされ、こそこそ隠れて聞かなければならないような状況にありました。
そしてそんな風潮に追い打ちをかけたのが、1996年の活動休止から復活したキングギドラでした。
2002年リリースの2ndアルバム「最終兵器」。このオリコン3位に食いこんだヒット作に収録された楽曲“公開処刑”。
ZeebraがKjを明確に名指ししつつ怒りに満ちた批判をぶちまけたこの楽曲の刃は、Kjだけに留まりませんでした。
Zeebraに続いたK DUB SHINEのバースは、明らかにRIP SLYMEとKICK THE CAN CREWに向けたものだとわかるもの。
ビーフが珍しかった当時の状況もあいまって大変な話題になりました。結果、大きなショックを受けたKjは1年近く休養をとり、Dragon Ashもヒップホップとは違う道に進むことになりました。
公開処刑で名前があがらなかったSOUL'd OUTはどうでしょうか?
2000年代後半(2005年〜2009年)

バブルと呼ばれるほどラップの曲が売れた2000年代前半と打って変わって、日本のヒップホップシーンはここから長い低迷期に入ります。いわゆる「日本語ラップ冬の時代」と呼ばれた時期です。
2007年の国内唯一のヒップホップ専門誌「BLAST」の休刊は、その象徴のような出来事でした。
ただ、あくまで低迷したのはセールスなどの商業面に関してであり、音楽的にはむしろ充実している時期でした。
漢に加え、SEEDAやANARCHY、NORIKIYOら現在も活躍するラッパーたちの出現は、日本語ラップが真のストリートを発見した時代ともいえます。
日本語ラップ冬の時代
2000年代後半から日本のヒップホップ界は最も過酷な時期をむかえました。
現在華々しい活躍をしている多くのラッパーも、口々に「この時代は本当に辛かった」と当時を振り返っています。
ヒップホップに限らず「全体的にCDが売れなくなった時代」だったことも関係していますが、「メジャー」vs「アンダーグラウンド」のところで解説した一連の現象が与えたマイナスイメージも大きかったというのが現在主流の見方となっています。
ヒップホップ=アンダーグランド、怖い、排他的、楽しくない、などなどのネガティブなイメージを与えてしまったのがマズかったという事ですね。
リアルなストリートを唄うラッパーの台頭
2000年代前半から頭角を表していた漢(現・漢 a.k.a.GAMI)は、クルーだけではなくソロとしても精力的に活動していました。
2005年に1stソロアルバム「導〜みちしるべ〜」をリリース。
SEEDA
2006年はまさに“SEEDA(シーダ)”の年でした。
SEEDAは川崎区を拠点に結成されたヒップホップクルー“SCARS(スカーズ)”の一員としてシーンに現れました。
SEEDAおよびSCARSの面々が日本のシーンに持ちこんだのは、「ハスリングラップ」という概念でした。
*ハスリングとはドラッグディール(麻薬売買)のことです。
アメリカでは昔からあった定番のスタイルで、数多くのラッパーがハスラー(売人)時代のことを曲にして人気ラッパーにのし上がっていきました。
警察に捕まるかもしれないリスクや仲間への勘ぐりや裏切り。そんなリアルすぎるストリートの世界を歌った、SCARSの「THE ALBUM」(2006)。
そしてその年末に満を持してリリースされたのが、SEEDAの「花と雨」でした。
2006年にSEEDAやSCARSの面々が唄った本場アメリカさながらのハスリングラップは、日本語ラップのストリートの新境地を切り開きました。
そしてSEEDAに関わる活動でもうひとつ触れなければならないのが、DJ ISSOと共に始めたMIX CDシリーズ「CONCRETE GREEN」です。
これからのシーンを担うラッパーを多数発掘したこのシリーズは、現行のヤバいラッパーを知りたいヘッズがこぞって買う、一大メディアとしての機能を果たした試みでした。
ANARCHY
現在も精力的に活動しているラッパーの“ANARCHY(アナーキー)”。
ANARCHYが唄ったのは、日本における「ghetto(ゲットー)」の存在でした。
ゲットーとはヒップホップでよく使われる、“治安の悪い地域や貧民地区”を指すスラングです。
京都の向島の団地で育ったANARCHYは、そんなゲットーでのハードな現状を歌った名盤「ROB THE WORLD」(2006)でセンセーショナルな登場をしました。
これまでにあった日本のヒップホップへの批判に「一億総中流家庭の日本にはゲットーなんか無い」という物言いがありました。
ANARCHYはそんなことはたわごとだと言わんばかりに、リアルすぎる日本のゲットーを描写しました。
NORIKIYO
リリシストとして高い評価を受けるラッパーの“NORIKIYO(ノリキヨ)”。
そんなNORIKIYOもSEEDAと共にハスリングラップの境地を切り開いた第一人者です。
学生時代からストリート・ビジネスに関わってきたNORIKIYOは、足に後遺症の残るほどの大怪我をしたことをきっかけに、自身のこれまでの経験を曲にすることを決意します。
そして、2007年にリリースされた1stアルバム「EXIT」。各種メディアのその年のアワードを総ナメにしたこのアルバムは、ハスリング生活を送るなかでの葛藤や痛みを生々しく表現しました。
アルバム制作中にSEEDAの「花と雨」を聞いたNORIKIYOは衝撃を受け、「最前線のハードルが上がっちゃったから書き直す」 と10曲近くの歌詞を変えるほど、リリックの深さを更新することにこだわり抜いたそうです。
2008年に2ndアルバム「OUTLET BLUES」をリリースする頃には、渋谷区宇田川町の通称“シスコ坂”に、10メートル以上にもなる巨大なグラフィティー・アートが描かれるなど、絶大な支持を受けたNORIKIYO。

SEEDAとNORIKIYOはハスリング生活を生々しくも詩的に描写するという手法で、「ストリート文学」の新たな境地を切り開いたのです。
そんな日本的ストリートを更新したラッパーたちが活躍した2000年代の終わりに登場したのが、PUNPEEやS.L.A.C.K.(現・5lack)という日本語ラップをさらに更新していった新世代でした。
力の抜けた自然体のスタイルで音を楽しむ彼らの登場は、明らかにこれまでの流れを変える新たな潮流でした。
2010年代に入ると、ネットを駆使してプロモーションして注目されたAKLOなど新たなプレイヤーが台頭してシーンを変えていくことになるのですが、それはまた別の記事で解説することにします。
まとめ
この記事では2000年代の日本のヒップホップシーンについて解説しました。
本当に重要なポイントに絞って解説したのでまだまだ語らないといけない事は山ほどあるのですが、まずはこの時代と核となった部分から理解してもらえればと思います。
他にも日本のヒップホップの歴史について解説している記事があるので、そちらもチェックしてもらえると嬉しいです!