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ラッパー柊人のプロフィールや好きなことまでの経歴、人気曲まで紹介

「好きなこと」のヒットで一躍人気ラッパーとなった柊人(シューツ)

情感あふれる歌声と共感を呼ぶ歌詞で、多くの人の胸を打つ楽曲をつくってきました。

そんな柊人の楽曲が持つ魅力は、借金まみれで音楽を諦めようとした過去や、沖縄で漁師をしながら活動した彼の人生が深く関係しています

この記事では、そんなラッパー柊人のプロフィールや詳しい経歴、驚きのエピソードまで紹介します

柊人のこれまで歩んだ人生を知ると、楽曲への理解がより深くなること間違いなしです。

ぜひチェックしてみてください!

 

柊人とは

アーティスト名(読み方)柊人(シューツ)
本名非公表
年齢31歳(1993年生まれ)
出身地沖縄県
所属レーベル -
柊人のプロフィール

柊人は1993年生まれで、沖縄を拠点に活動するラッパーです。

「好きなこと」のヒットでシーンの注目を浴びると、「Red Bull RASEN」や「THE FIRST TAKE」など多くのビッグ・コンテンツにも出演。

数々の客演曲やライブ出演も精力的にこなし、今やシーンに欠かせない人物のひとりとなりました。

出身

現在、沖縄を拠点に活動をしている柊人は、これまでに色々な場所で暮らしてきました。

高知県で生まれて小2まで育ち、親の仕事の関係でオーストラリアに移ることになり、中学3年のときに沖縄に来ました。

その後大学進学で上京し24歳まで東京で過ごしたのち、借金返済のために九州各地を出稼ぎで転々としては沖縄に戻るという生活に。

2019年頃からは沖縄に定住して活動をしています。

名前の呼び方

アーティスト名の「柊人」は「シューツ」と読みます

公式プロフィールにも記載されていますし、各種メディアでも「シューツ」と紹介されています。

同い年で仲の良いCHICO CARLITOが「シュート」と呼んでいるのは、本名が「シュート」であるからだと推察されます。

元漁師

柊人は音楽だけで生活できるようになる2022年まで、沖縄で潜り漁師をしていました

潜り漁とは

沖縄の伝統的な漁法のひとつで、夜中の海にライトを着けてタンクを背負って水深20メートルまで潜り、水中銃などの道具で寝ている魚介類を仕留めるという漁法。

歩合で捕れた分だけ稼げますが、サメに襲われることもある危険で体力的にもハードな仕事です。

ヒット曲「好きなこと」の歌詞は、そんな潜り漁の最中、水深20メートルの水中で生まれました

柊人が「水中作詞」と名づけた、沖合に向かう船の上でビートを聴いて、潜ったら水中でビートを思い出しながら歌詞を考えるという”異色の制作方法。

柊人はこんなやり方で何曲もの歌詞を作ってきたそうです。

好きなアーティスト

親の影響で小さい頃に聞いた“ローリン・ヒル”や“エリカ・バドゥ”、日本人アーティストでは“宇多田ヒカル”や“Crystal Kay”など女性R&Bシンガーを好む傾向があります。

日本語ラップでは“紅桜や“BRON-K”のフロウに衝撃を受け、自身のスタイルにも影響しています。

経歴

公式Instagramより

柊人の略歴は以下のようなものです

幼少期1993年高知県に生まれ、小2まで日本で暮らす。
小2〜中3親の仕事の関係でオーストラリアへ移住。
ヒップホップに出会う。
中3〜高校卒業沖縄に引っ越し、高校卒業まで過ごす。
自分でもラップを始める。
大学入学〜24歳大学進学のため上京。精力的に活動するもグループは解散。
大学は中退。トラブルから多額の借金を抱える。
〜2019年沖縄に戻り借金返済の為の出稼ぎ生活へ。
CHOJIと出会い、本格的な制作活動を始める。
〜2022年沖縄に定住し漁師として働く。
「好きなこと」が徐々に広まり、MVリリース後にブレイク。
2023年「Red Bull RASEN」「THE FIRST TAKE」出演。
柊人の略歴

日本に生まれ、15歳までオーストラリアへ

柊人は1993年に高知県に生まれました

両親と3兄弟の5人家族で、柊人は兄弟の真ん中で兄と妹がいます。

父親は絶滅危惧種や少数民族の写真を撮影するフリーランスのフォトグラファーという珍しい仕事をしていました。

父親がどこかへ撮影しに行って、帰ってきたら土産話を聞くのが好きだったそうです。

両親ともブラックミュージックなどの海外の音楽が好きで、自宅では常に音楽が流れているような音楽一家で育ちました。

両親の影響でローリン・ヒルやエリカ・バドゥなど海外のR&Bが好きになり、それが柊人の音楽的なルーツとなりました。

今では考えられませんが、柊人は幼いころはもの凄い音痴だったそうです。

オーストラリアへ移住

フォトグラファーの父親の仕事の関係で、柊人が小2の時に一家でオーストラリアへ移住します

オーストラリアに生息している2000種以上もの絶滅危惧種を撮影するためという理由でした。

自分たち兄弟しか日本人がいない現地の学校に入学。ヒップホップに出会ったのは、日本の中学2年生にあたるオーストラリアの8年生の時でした。

アラブ系やクロアチア系のグループと仲が良かった柊人は、彼らが好きだったリル・ウェインや2PACを聴きラップが好きになります

はじめて聞いた日本語ラップは、2006年の映画「ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT」の劇中歌である“TERIYAKI BOYZ”の「TOKYO DRIFT」でした。

沖縄への移住

柊人が中3の時にビザの滞在期間が切れ、一家はオーストラリアを離れることにします。

家族での相談の結果、温かい場所いいという理由で、両親と柊人と妹は沖縄に移り住むことにしました

兄だけはオーストラリアに残りました。

初めての土地・沖縄に移った柊人は、中学を卒業したのち、地元の高校に進学。

この高校時代にアーティスト活動を始めるきっかけとなる経験をします。

高校の時に友だちと観に行ったライブに出ていたのが、来世(現ジェロニモR.E)という同じ歳のラッパーで、そのライブを見て柊人は大きな衝撃を受けました。

「こんなに自由にやっていいんだ。かっこいいな」と感じたそうです。

このライブを見て以降、柊人は誰にも聞かせることもなくオリジナルの楽曲を制作するようになりました

上京しグループを結成

柊人は高校卒業後、東京の大学に進学しました。

そして、東京で出会った岩手出身のラッパーと2MCのグループを結成します

ブーンバップ系のビートに柊人は英語で、相方は日本語でラップするというスタイルで楽曲制作をします。

当時は歌わずにバイブス高めにラップをするような、今とはまったく違うスタイルでした。

初めてのライブは21~22歳の頃で、この頃にCHICO CARLITOとも渋谷で出会いました

CHICO CARLITOがMCバトルで有名になっていった頃で、柊人が沖縄のラッパーだと知っていたCHICOから声をかけました。

その後ふたりは同郷で同い年だったということもあって、そこからお互いのライヴに行き来したりする仲になりました。

この東京にいた時期に出会ったもうひとりが、唾奇です

その時に唾奇は「沖縄604においでよ」と声をかけてくれて、柊人、CHICO CARLITO、唾奇の3人でアルバムつくろうと誘ってくれました

沖縄604=MuKuRoや唾奇、Disryなどが所属するヒップホップクルー。

しかし、のちに借金返済のため出稼ぎ生活に明け暮れた柊人は、結果、このありがたい提案も流してしまうことになります

学業より音楽にのめり込んでいった、柊人は大学を中退します。

2MCのグループも、活動が思ったように上手くいかずに解散してしまいます

柊人はこの事を「先を見て計画的に作品をつくって、どれくらい稼げるかなどを考えていればよかった。自分の適当な部分が良くなかった」とふり返っています。

借金で首が回らなくなる

グループは解散はしましたが、この頃から「音楽で生きていきたい」という気持ちは固まっていったという柊人。

色んな仕事をかけ持ちしながら、かつて池袋にあったクラブ・BEDで客がいない時間にライブの練習をさせてもらうなど、活動は続けていました。

そんな生活が柊人が24歳のときに、崩れてしまいます

詳細は語られていませんが、人とビジネスをして稼ごうとした結果、トラブルが重なって頓挫。

柊人は色んな人からの借金が積りに積もって、2018年頃に完全に首が回らなくなりました

柊人は「自分が得することばかり考えてめちゃくちゃしすぎた」と、自分に非があったと語っています。

柊人も一時期飛んで、4ヶ月くらい音信不通になるなど、もう東京にいられる状況ではなくなりました

CHICO CARLITOが引っ越しの手伝いに来てくれたそうです。

出稼ぎ生活の日々

柊人は多額の借金を返済するために、沖縄を拠点にしながら、九州を中心とした色んな地方に出稼ぎに行きました

期間限定の工場でのライン作業などの仕事をしては、沖縄に戻るという生活を繰り返す生活がつづきました。

楽曲制作もせずに出稼ぎ生活に明け暮れる柊人を見て、周りのラッパー仲間からはしだいに呆れられ、相手にされないようになったそうです。

恩人・CHOUJIと出会う

音楽で1円も稼げず、もう辞める寸前までいったという柊人。

そんな時期に、柊人は恩人となる“CHOUJI”と出会うことになります

CHOUJI=ラッパー/プロデューサーとしての活動以外にも、「DGH STUDIO」の運営も行う。無料でスタジオを開放し、曲のリリースまでサポートするなど、沖縄のラッパーの兄貴的存在。

柊人が初めてCHOUJIに会ったのは、Kid Inkの沖縄ライブのアフターパーティーのことでした。

それ以来、出稼ぎから帰ってくるたびに、CHOUJIのもとに挨拶に出向くことだけは欠かさなかったそうです。

周りからも見放されていた柊人を、CHOJIだけは気にかけてくれて、音楽に誘いつづけてくれました

会うたびに「何か録ろう」「音楽やったほうがいいよ」と声をかけ続けてくれたそうです。

そんなCHOUJIに励まされ、柊人は2019年、CHOUJIとMuKuRoという先輩2人と「packback」をリリースしました。

「好きなこと」のヒット

CHOUJIのサポートもあり音楽への決意を新たにした柊人は、その後も精力的に作品をリリース。

出稼ぎ生活でだいぶ借金も減ったため、潜り漁師として沖縄で働きながら音楽活動をしていきました。

くわしくは「元漁師」の項目で

漁師だけではなく、夜はCHOUJIが当時営んでいた天ぷら屋でも働きました。

そんな生活を続けるなか生まれた「好きなこと」のヒットが柊人を一躍有名にすることになりました

「好きなこと」はデモ段階の曲をCHOUJIのスタジオに持っていき、そこにいたCHICO CARLITOからのアドバイスもあって出来た曲でした。

CHICOや唾奇など沖縄の仲間たちが「この曲いいよ」と広めてくれたことで徐々に知られ、2022年にMVをリリースしたタイミングで人気が爆発しました

2024年にはCHOUJIとAwichを迎えたRemixもリリースされたこの曲は、長い間多くの人たちに愛される楽曲となりました。

Awichから「この曲ハンパないよ、最高だよ」と言ってくれて、一緒にRemixを作ることを提案してくれたそうです。

この曲のヒットで注目の存在となった柊人には、客演オファーやライヴ出演も急増。

「Red Bull RASEN」や盟友であるCHICO CARLITOとの「THE FIRST TAKE」など、ビッグ・コンテンツにも次々と出演しさらに認知される存在となっていきました。

人気曲・おすすめ曲

好きなこと

柊人の存在を世に知らしめたヒット曲。

なりたい自分と、そうでない自分。理想と現実の両方がある。嫌なことも全力でやりながら、いつか好きなことをやりたい。

そんな多くのひとが共感できる歌詞と、柊人の歌声が心に染みる1曲です。

コツコツが勝つコツ That's what somebody told me

“好きなこと”より引用

このラインは柊人が大阪でライブを見ていたときに、ある女性ラッパーが「コツコツが勝つコツやねん」とMC中に何度も言っていたのが印象に残っていて使ったそうです。

そのラッパーが誰だったのかは、いまだに分かっていないそうです。それで「That's what somebody told me」と入れたのですね。

絶景

柊人にとって念願だったというhokutoのビートにのせた楽曲。

MVのように自然のなかをドライブしながら聴きたいノリのいい1曲です。

“日々の困難にいかに向き合うか”という柊人のメイントピックがこの曲でもテーマになっていますね。

やるしかない

やさしいピアノの音色に溶け込む柊人の声が印象的な1曲。

失敗して借金を抱え、そこから仲間の助けを借りて花開いた柊人の人生がつまったような歌詞もグッときますね。

忘れないで feat. 田我流

無名のころの柊人のステージを観てた田我流から「俺と一緒に曲やろうよ」と声をかけられた事をきっかけに出来た楽曲。

子どもの頃のような自由な心を思い出させてくれる1曲ですね。

少しスピリチュアルな柊人の自然観から生まれた幻想的な歌詞も印象的です。

まとめ

この記事ではラッパー柊人について紹介しました。

とにかく心地よい歌声は、いつまでも聴いていたくなる魅力がありますね。

人の心に寄り添うような歌詞は、柊人がこれまで辿った人生から生まれていることも印象的でした。

他にもラッパーに関しての様々な記事を書いているので、興味のあるものからチェックしてみて下さい!

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