- 現役のラッパーのなかで日本語ラップ史的に重要なラッパーは誰なの?
- そのラッパーが残した功績とは何だったの?
- 日本のヒップホップ史の流れについて知りたい
日本のヒップホップは1980年代前半から始まったといわれています。その40年以上におよぶ歴史のなかで、数多くの偉大なラッパー達がこの音楽を進化させてきました。
「そんな日本のヒップホップの歴史のなかで本当に重要なラッパーは誰なのか?」
この記事ではそんな問いに答えるべく、数百人(組)はあがる候補の中から20人(組)にしぼって紹介していきます。日本のヒップホップについて知りたい方は、まずはこの20人(組)を押さえるところから始めましょう。
「いわばオールタイムのALL STARメンバー20選」
日本のヒップホップ史全体への理解につながるように、キャリア35年以上を越す大ベテランから、まだキャリア数年の20代のラッパーまで幅広く選出しました。
選んだラッパー達は現役として楽曲をリリースしていたり、現在でもライブを精力的に行っている人達です。よって
- 故人(DEV LARGEやTOKONA-Xなど)
- 今は活動していない人やグループ(MICROPHONE PAGERやSOUL SCREAMなど)
以上に当てはまる人は対象外となります。
目次
Zeebra
はじめに紹介するのは、やっぱりこの人。日本のヒップホップシーンの象徴、“Zeebra(ジブラ)”です。
「俺は東京生まれHIP HOP育ち 悪そうな奴は大体友達」。ヒップホップを聞かない人でも知っている、あまりにも有名な“Grateful Days”のこの一節。
日本におけるラッパーのイメージを決定づけた第一人者であり、現在も様々なアプローチからヒップホップを広める活動を続けています。
1993年に3人組ヒップホップグループ“キングギドラ”を結成。1995年に1stアルバム「空からの力」をリリース。
英語のフロウをなぞりながら倒置法などを使うことで、日本語でちゃんとライミングする。この作品は、日本語でのライムの基本を作った「日本語ラップの教科書」とまで言われる超重要作となりました。
1997年にソロとしてメジャーデビュー。2005年に出した代表曲“Street Dreams”をはじめ数々の楽曲をヒットチャートにランクインさせつつ、2013年までにソロとして8枚のアルバムをリリースしました。
そこからのZeebraはプレイヤーとしてよりも、仕掛け人側として日本のヒップホップシーンの発展のための活動に注力します。
2014年には元BADHOPの“T-Pablow”や“YZERR”などの次世代のラッパー育成を目的としたレーベル、「GRAND MASTER」を立ち上げ。
2015年にはメインMCとして“MCバトルブーム”を巻き起こしたTV番組、「フリースタイルダンジョン」の発足に携わりました。
プレイヤーとしては現役でソロとしてLIVEを行っているほかキングギドラとしての活動も再開しており、2022年には「THE FIRST TAKE」への出演も果たしました。
30年を超えるキャリアを持つリビングレジェンドでありながら、現役のプレイヤーとしても裏方としても日本のヒップホップシーンに影響を与えつづけるラッパーが、Zeebraです。
スチャダラパー
次に紹介するのが、日本で初めてヒップホップのヒット曲を生み出したグループ、“スチャダラパー”です。
スチャダラパーは、Bose(ボーズ)、ANI(アニ)の2MCに、ANIの実の弟でありDJのSHINCO(シンコ)をくわえた3人組のヒップホップグループ。
1990年にデビューし、1994年にリリースされた小沢健二との楽曲“今夜はブギー・バック”の大ヒットでブレイクしました。
スチャダラパーの果たした功績は、Zeebraなどの本場U.S.さながらのハードコアなスタイルに対し、日本ならではのスタイルを確立した点です。
アメリカのリアルが銃やドラッグならば、自分たちはゲームやマンガ。ハードな日常ではなく、退屈でまったりとした日常を歌ったのが彼らでした。
「オモロ・ラップ」と自称したクスっと笑えるような脱力した楽曲の数々。現在まで連綿とつづく、文系、ナード系と呼ばれるようなスタイルの第一人者がスチャダラパーです。
活動初期はアンダーグラウンドシーンから敵対視されていましたが、現在でも名盤として語られている95年リリースの5thアルバム「5th WHEEL 2 the COACH」など、ふざけているようで実はヒップホップ強度の高いことを周りに知らしめ認めさせてきました。
これまでに14枚のアルバムをリリース。キャリア35年を超えた現在も、自分たち主催のライブ以外のフェスなどにも多く招かれる人気グループとして活動しています。
リスナーのみならずプレイヤーたちにも多大な影響を与えてきており、世代の違うアーティスト達からのコラボのオファーも絶えません。
RHYMESTER
Zeebra、スチャダラパーとキャリア30年を超える大ベテラン勢で最後に紹介するのは、“RHYMESTER(ライムスター)”です。
宇多丸、Mummy-Dという2人のMCと、DJ JINを加えた2MC +1DJの3人組ヒップホップグループで、早稲田大学の音楽サークルで出会ったメンバーで1989年に結成されました。
彼らの最大の持ち味はライブ力の高さ。どんなアウェイな会場でも最終的に観客を盛り上げてしまうその圧倒的なライブ力をもって、「キング・オブ・ステージ」と呼ばれています。
また、大ベテランになっても未だに新規ファンを増やしつづける息の長さも特筆すべきポイントです。
結成35周年をむかえた2024年に2度目の「日本武道館公演」を開催し観客で埋めた。この出来事だけで彼らのすごさが伝わるでしょう。
また、宇多丸は人気ラジオパーソナリティーとしても活躍中で、ときに特集を組んでヒップホップとは何なのかをリスナーに啓蒙しています。
KREVA
次に紹介するのは、メジャー/ヘッズの両方から支持された日本最大のラップスター“KREVA(クレバ)”です。
日本語ラップシーンの枠を飛びこえメジャーのフィールドで20年以上にわたり活躍している唯一のラッパー、KREVA。
1997年結成の3MCヒップホップグループ“KICK THE CAN CREW(キック・ザ・カン・クルー)”のメンバーとして「紅白歌合戦」に出演するほど大成功したのちに、2004年にグループは活動休止。
そこからソロとしての活動を始め、2006年には邦楽ヒップホップ“ソロアーティスト”初となる日本武道館公演を果たしました。
「日本語ラップ冬の時代」と呼ばれた2000年代後半〜2010年代前半の間も次々とヒットチャートに曲をランクインさせ、毎年大きな会場で全国ツアーを行うなど常にスターにふさわしい活躍をしてきました。
数々の作品を残してきたKREVAですが、特に2009年にリリースした4枚目のソロアルバム「心臓」は最高傑作として高い評価を受けました。
今は当たり前となった「シンギング・ラップ」と呼ばれるようなラッパーがメロディアスに歌いあげるスタイルを、この時点で試みていた先駆者でもあります。
またKREVAといえば、ヒップホップを使った様々な実験的な試みを行うアーティストとしても知られています。その一例を紹介すると
- 「完全1人公演」-バックバンドやDJを設けず1人きりで機材を使いながら行うライブ
- 「新しいラップの教室」-コントとコンサートの両方の魅力を詰め込んだ “授業型エンターテインメント”
- 「最高はひとつじゃない」-KREVAの楽曲を利用したラッパーと役者が演じる“音楽劇”
KREVAはもっともメジャーなフィールドで活躍しながら、誰よりもヒップホップの新たな可能性を探ってきました。
2017年からは長らく活動を休止していたKICK THE CAN CREWも再開し、楽曲のリリースやライブ活動も行っています。
グループとソロを合わせて10回以上「日本武道館」での主催ライブを開催。この先破られそうにない前人未踏の活躍をしてきたのが、KREVAというラッパーです。
OZROSAURUS
「ハマの大怪獣」という異名を持つラッパーの“MACCHO(マッチョ)”擁する6人組ヒップホップバンド“OZROSAURUS(オジロザウルス)”。
OZROSAURUSは元々96年に1MC+1DJのコンビとして結成され、途中で何度か形を変え2010年代半ばにミクスチャー界の名手たちを迎えてバンド形態になりました。
形は変われどOZROSAURUSの核は常にラッパーでバンドのフロントマンの“MACCHO(マッチョ)”。
彼の代表曲であり日本語ラップ屈指のクラシック“AREA AREA”の有名な出だしの一節。
約何年経ったろう あの頃より企んでた東京よりやや西 潮の吹く港から俺もやったろう
“AREA AREA”より引用
ラッパーが“自分はどの土地を代表しているのか”を示す“レペゼン”という概念を日本のヒップホップシーンに植えつけたのが、横浜を代表するラッパーのMACCHOです。
北の地“北海道”を拠点に活動する“THA BLUE HERB(ザ・ブルーハーブ)”が名盤と名高い1st ALBUM「STILLING, STILL DREAMING」を出したのが、1998年のこと。
東京一極集中状態だった当時のシーンに反旗をあげたこのアルバムに続いてリリースされたのが、2000年にMACCHO擁するOZROSAURUSの1stアルバム「ROLLIN'045」でした。
“AREA AREA”を含めた名曲が並ぶこのアルバムは、市外局番「045」=横浜という自分が代表する土地から発信するという“レペゼン文化”をヒップホップシーンに根づかせました。
またMACCHOを語る際にはこういった文脈上の意義だけではなく、純粋なラッパーとしての魅力、力量について触れないわけにはいきません。
一聴するだけで耳に残る個性的な声。キャタピラでなぎ倒していくような破壊力のあるラップ。ラッパーとしての圧倒的な力量でどんな現場も制圧してしまいます。
ここ数年は第2の全盛期ともいえる活躍ぶりで、特に長年ビーフ関係にあったKREVAとの“Players' Player ”は非常に大きな話題となりました。
般若
ヒップホップという音楽ジャンルのなかにいながら、独自色を極めたラッパー“般若(はんにゃ)”。
日本のヒップホップ史のなかでも般若というラッパーはあまりに異質で、まるで“般若”という音楽ジャンルを1人でやっているかのようです。
世界の流れとは関係なく独自進化したようなものに対して 「日本的ヒップホップ」と呼ぶことがありますが、般若の場合はそれともまた違って「般若的ヒップホップ」とでも呼ぶしかない強烈な個性があります。
2000年代中盤からソロとして立て続けにアルバムをリリースして、シーンでの存在感を増していった般若。ラッパーとしての評価を上げた一方、過激なテーマやメッセージを含んだ楽曲で物議をかもした事も数知れません。
その過剰なスタイルはハッキリと好みが分かれるところですが、共感するにせよ反発するにせよ、無視することのできない強烈な個性を放っています。
ただ、忖度の無い物言いをする彼だからこそ、リリックの中身は心底思っていることしか歌っていないという事がリスナーには伝わります。
ゆえに、メッセージがストレートに伝わって聞いている人の心を震わせるのです。
人間性もさることながら、あの強面のルックスに鍛えぬかれた肉体もあいまってキャラ立ちもラッパー界随一です。
その存在感からTV番組「フリースタイルダンジョン」のラスボスとしても出演し、一般の視聴者にも強烈なインパクトを残しました。
賞金2000万円という史上最高額をかけたMCバトル「BATTLE SUMMIT Ⅱ」でも優勝。近年はMCバトルファンの若者たちからの人気も絶大です。
2019年の「日本武道館」でのワンマンライブ以降も、制作ペースは変わらずアルバムをリリースし続けています。
2000年代に先に華々しく活躍した同世代のラッパー達には悔しい思いをしたようですが、般若は尻上がりにキャリアを更新してベテランとなった今も輝いています。
AK-69
「日本語ラップ奇跡の世代」と呼ばれる1978年生まれのラッパーの面々。その中でも最も成功したラッパーが、“AK-69(エーケーシックスティーナイン)”です。
日本語ラップ奇跡の世代=「78年式」とも呼ばれるラッパー豊作の年に生まれたラッパー達の呼称。AK-69、MACCHO、TOKONA-X、般若、漢 a.k.a.GAMIなど他にも多くのラッパーがいます。
ラッパーを目指す若者に夢を見せるために「日本で一番稼いでいるラッパー」と自称し、総額数千万円のジュエリーを身につけステージに立つAK-69。
名古屋のアンダーグラウンドを起点とした活動から成り上がったその様は、まさに“HIPHOPドリームの体現者”です。
プロ野球選手や格闘家などのアスリートから絶大な支持を受けていることも彼の特筆すべき点です。
困難な状況に立ち向かう際に自らを奮い立たせるような楽曲が多いことが、その人気の理由。
「命がけでカッコつけたい」と言う彼は、アスリート並みの健康管理やトレーニングを欠かさず行い、年齢を重ねてもパフォーマンス力を落とさぬよう自己研磨を欠かしません。
現在もシーンの最前線で活動しつづけ、多くの若手とのコラボレーションも精力的におこなっています。
SEEDA
日本史上最高のラッパーのひとりと称される、“SEEDA(シーダ)”。
SEEDAは2000年代後半にシーンを席巻したヒップホップクルー“SCARS(スカーズ)”の一員として現れ、ソロとしても多数の名作をリリースしてきたラッパーです。
SEEDAおよびSCARSの面々が日本のシーンに持ちこんだのは「ハスリングラップ」という概念でした。
*ハスリングとはドラッグディール(麻薬売買)のことです。
アメリカでは昔からあった定番のスタイルで、数多くのラッパーがハスラー(売人)時代のことを曲にして人気ラッパーにのし上がっていきました。
警察に捕まるかもしれないリスクや仲間への勘ぐりや裏切り。そんなヒリヒリとした世界のことを歌ったSCARSの「THE ALBUM」(2006)。
そしてその年末に満を持してリリースされたのが、SEEDAの「花と雨」でした。
このアルバムでSEEDAは圧倒的なラップスキルと詩才をいかんなく発揮。
ハスラーからラッパーになるまでの物語をコンセプチュアルな構成で語ったこの一枚は、日本語ラップ史上屈指の名作として現在でも聴かれ続けています。
SEEDAについてもうひとつ語らなければならないのは、日本語と英語を巧みに融合したフロウの第一人者であるという点。
のちに2010年代に入ってから、AKLOやSALU、KOJOEなどのラッパーがその流れを受けつぎ進化させていきますが、ロンドン育ちのバイリンガルラッパーであるSEEDAがその礎を築きました。
現在は人気YouTubeチャンネル「ニートtokyo」の運営者としてや、Abemaのオーディション番組「ラップスタア」の審査員として知られているSEEDA。
待望の10年ぶりのニューアルバムのリリースも決まっており、まだまだ現役としての活躍も見せてくれそうです。
ANARCHY
日本における「ghetto(ゲットー)」を歌いシーンに現れたラッパー、“ANARCHY(アナーキー)”。
ゲットーとはヒップホップでよく使われる、“治安の悪い地域や貧民地区”を指すスラングです。
京都の向島の団地で育ったANARCHYは、そんなゲットーでのハードな現状を歌った名盤「ROB THE WORLD」(2006)でセンセーショナルな登場をしました。
「一億総中流家庭の日本にはゲットーなんか無い」などたわ言だと言わんばかりに、ANARCHYはその後も次々とゲットーのリアルな暮らしを歌った楽曲をリリースしていきました。
中でも“Fate”(2008)は名曲として現在でも広く聞かれており、厳しい環境から抜け出そうともがく若者たちのアンセムのようになっています。
現在活躍中のラッパーの中にも“ANARCHYを見てラッパーになった”者も数知れず、今もラッパーを志す若者たちに絶大な影響を与えつづけています。
2024年リリースの「LAST」を含めこれまでに9枚のアルバムをリリースし、現在もLIVEで全国の観衆を沸かしつづけています。
PUNPEE
当代随一の天才ラッパー/プロデューサーの“PUNPEE(パンピー)”。
パンピー(一般人)を自称しながら、その実は「センスの塊」のような音楽的才能を持ちあわせるPUNPEE。
「映画、ゲーム、漫画などを愛するただの“オタク”のように見せかけて、いかついラッパー達をセンスでバッタバタとなぎ倒していく」。彼が好きな“アメコミヒーロー”を地で行くような男が、PUNPEEです。
同級生の“GAPPER(ガッパー)”、実の弟である“S.L.A.C.K.←現5lack(スラック)”との3人組ヒップホップユニット“PSG(ピーエスジー)”の一員として一時代を築いたのち、ソロとして活動。
ビートメイクをしても、ラップをしても、DJ MIXを作らせても、何をやっても圧倒的評価を得てきた彼ですが、唯一欠けていたのが自身のオリジナルアルバムでした。
そんな全日本語ラップファン待望の1stアルバム「MODERN TIMES」を2017年にリリース。
この「40年後の自分が聞き返しながら振り返っているという」というストーリー仕立てのコンセプトアルバムは、出た時点で“クラシック認定”されるほどの高い評価を受け、上がりに上がったハードルをやすやすと超えてしまいました。
世代やジャンルも超えたアーティスト達とのコラボが盛んなのも彼の特徴で、時にアッと驚くような作品をリリースして人々を楽しませています。
ZORN
人気絶頂の時をむかえているラッパーの“ZORN(ゾーン)”。
現在日本でもっとも人気のあるラッパーの1人であるZORNは、キャリア20年以上を誇る中堅ラッパーです。
「労働者として普通に働きながら子育てし、たまに遊ぶのは昔からの地元の仲間たち」。そんな誰もが送るような生活を生きる人間が紡ぐヒップホップを歌ってきたのがZORNです。
大体こんなものさMy life 昨日も今日もまあ変わりない なんにもいいことなんて無い でも言葉に出来ない感謝に愛 信じたいものを信じたい 守りたいものを守りたい 題名なんて付いてない日 握る小さな手とMIC
“My life”より引用
ZORNの2015年リリースのヒット曲“My life”。「洗濯物干すのも HipHop」というフレーズが有名なこの1曲のサビの歌詞に共感しない人はいないでしょう。
「ヒップホップ冬の時代」にキャリアをスタートしたZORNは、諦めることなく地道に現場仕事をしながら活動してきました。
名プロデューサー“BACHLOGIC(バックロジック)”と組みだした2010年代後半から一気にファンを増やし、地元の仲間のことを歌ったストリート色の強い作品「新小岩」(2020)で人気が爆発。
「日本武道館」「横浜アリーナ」「さいたまスーパーアリーナ」と会場の規模を拡大してのライブを成功させ、「東京ドーム」公演実施も確実視されています。
そんなヒップホップシーン指折りの人気ラッパーが、ZORNです。
AKLO
2012年リリースの1stアルバムから“日本語ラップの最高到達点”と激賞され、シーンにセンセーションを与えたラッパーの“AKLO(アクロ)”。
日本とメキシコのハーフで幼少期をメキシコで過ごしたAKLOは、高校時代はアメリカに留学した経験もあるトリリンガルラッパーです。
AKLOが最初にシーンから注目されたのは、フリーダウンロードのミックステープによってでした。フリーの音源を次々と公開するなどネットを駆使したプロモーションはアメリカでは主流となっていた手法でしたが、当時の日本ではめずらしいものでした。
このようにAKLOは最先端のアメリカのヒップホップの解像度がきわめて高く、それを日本流に落としこんで楽曲にする名手として日本のシーンを発展させていきました。
常に世界水準のクオリティを追い求めつづけ、次々と新たなフロウを更新していくAKLO。そんな姿に同業者たちもハッパをかけられ、レベルアップしようと試行錯誤を積み重ねていく。
2010年代にAKLOがシーンに与えた影響は非常に大きなものでした。
2018年から蜜月関係になったラッパーのZORNとの活動もシーンを沸かし、ZORNが大きくブレイクするきっかけともなりました。
ここ数年は世代の異なるKEIJUとKvi Babaとのコラボ楽曲で大ヒットを連発し、次世代のファンからの注目度を増しています。
現在も楽曲をリリースしながら大型ヒップホップフェスでライブをするなど、変わらず精力的に活動。
日本最高峰のスキルを持つラッパーとして存在感を示しつづけています。
Creepy Nuts
現在日本でもっとも有名なヒップホップアーティスト、“Creepy Nuts(クリーピーナッツ)”。
ラッパー“R-指定”と“DJ松永”による2人組ヒップホップユニットです。
もはや日本のみならず世界のヒットチャートにも入り、日本のヒップホップ史上もっとも売れたアーティストとなりました。
いまだに“史上最高のフリースタイルラップの天才”と呼ばれるR指定と、“ターンテーブリストとして世界一”に輝いたDJ/ビートメイカーのDJ松永。
これまでヒップホップを聞かなかった層にまで届くキャッチーな楽曲、敬愛するRHYMESTERゆずりのライブテクニックで年々ファンを増やし続けてきました。
BADHOPに続き「東京ドーム」公演を発表すると、瞬く間にチケットはSOLD OUT。この現象は10年ほど続くヒップホップシーンの拡大ともまた別の、彼ら個人の人気によるものと思われます。
Creepy Nutsとヒップホップシーンとの関係は、常に微妙なものがあります。この現象も“日本語ラップの偉業”と捉えて語られることは少なく、ヒップホップコミュニティでの評価も追いついていません。
「Creepy Nutsはヒップホップなのか否か」。彼らには活動初期からずっとこんな問いが付きまとっています。音楽フェスには引っ張りだこなのに、ヒップホップに特化したフェスにはこれまで数えるほどしか参加していません。
Creepy Nutsをどう捉えるかは各々が決めればいいと思いますが、この記事で紹介しないわけにはいきません。
ただどんなスタンスの人も認めざるを得ないのは、2人が超絶的なスキルの持ち主だという事実。
Creepy Nutsが後世どのような位置づけで語られることになるのか、非常に興味深いトピックです。
千葉雄喜(KOHH)
Creepy Nutsに続いて紹介するのは、こちらも世界的な活躍をする日本人ラッパーの“千葉雄喜(ちばゆうき)”です。
2024年にとつじょ活動再開をして曲をリリースしたかと思えば、いきなり社会現象になるムーブメントを起こす。
かと思えば、同じ2024年に“Megan Thee Stallion(ミーガンジースタリオン)”のような世界的ラッパーの作品に参加し、しかもその曲が当初の予定を超えアルバム内でも最も人気の楽曲になってしまう。
そんな規格外の活躍をしてしまうのが、千葉雄喜というラッパーです。
千葉雄喜はもともと“KOHH(コー)”という名前で2010年代の日本のシーンを席巻していたラッパーでした。
日本語ラップの歴史をKOHH以前/以後で区切ることができる程、KOHHというラッパーはセンセーショナルな存在だったのです。
2010年代〜現在も隆盛をほこる「トラップ」というヒップホップのサブジャンル。このトラップというスタイルを日本でいち早く輸入し成功したのがKOHHでした。
「トラップという新しい音楽にどう日本語を当てはめてラップするのが正解なのか?」
当時の日本中のラッパー達が模索したこの問いの答えを出したのがKOHHでした。
また、KOHHの特徴として“歌詞が平坦”というポイントがあります。あらゆる技巧を削ぎ落としたようなストレートな歌詞。
“チーム友達”にも当てはまるのですが、例として2014年のヒット曲“貧乏なんて気にしない”の冒頭の歌詞を引用します。
貧乏なんて気にしない 目の前にお金が無くても幸せなことがいっぱい あるから大丈夫 色んな事もっとしたい 大金持ちでも心の中が貧乏じゃ意味ない
“貧乏なんて気にしない”より
そもそも“貧乏なんか気にしない”という曲名からしてそのまんまなんですが、歌詞も全編こんな感じでつづきます。
「他の人が真似してやってもアウトなんだけど、KOHHだとなぜか成立してカッコよく聞こえてしまう」。
そんな不思議な魅力を持っているラッパーが千葉雄喜(KOHH)なのです。
また、現在最前線で活躍している若手ラッパーへもっとも影響を与えた人物であり、彼のスタイルを自分なりに昇華した20代のラッパーたちが新たなシーンを作り上げています。
BADHOP
40年を超える日本のヒップホップの歴史。そんな日本のヒップホップ史上最大のスターが“BADHOP(バッドホップ)”です。
川崎市出身の幼なじみを中心に結成された8人組のヒップホップ・クルーのBADHOP。川崎の過酷な環境を歌い、成り上がった姿を若者たちに見せた現代のスーパースターです。
2024年2月にヒップホップアーティストとして初の東京ドーム公演を成功させ、この講演を最後に惜しまれつつ解散しました。
次世代の新たなラッパーの象徴として、多くの新規ファンをヒップホップの世界に連れてきた功績もはかり知れません。
T-PablowとYZERRという天才兄弟と6人の個性の異なる魅力的なメンバー。この奇跡のようなスーパーグループの歴史的価値は、今後時を経てまた評価されるのでしょう。
かつての若者がZeebraやANARCHYを見てラッパーを志したように、現代の若者はBADHOPを見てラッパーに憧れました。
最後までレーベルに所属せず、自分たちの力だけでこの規模の活動をやり遂げた点も驚愕に値します。
今後も各メンバーがそれぞれの活動でヒップホップシーンに携わってくれることを期待しましょう。
Awich
日本のヒップホップの歴史において初めてシーンのTOPに立った女性ラッパー“Awich(エイウィッチ)”。
「女王」と呼ばれる彼女は間違いなく歴代NO.1女性ラッパーであり、大型ヒップホップフェスのヘッドライナーをつとめるシーンの中心人物です。
男性優位社会だったヒップホップシーンにおいて、女性ラッパーは常に困難な戦いを強いられてきました。日本のヒップホップの歴史においても、これまでにシーンで存在感をはなった女性ラッパーは確かに存在しました。
しかし、メインを貼るようなシーンの中心人物となり得た人物はいなく、あくまで存在していたということでした。
そんな歴史をこじ開けたのが、Awichでした。
2006年に一度デビューしていた彼女は、アメリカでの生活を経て2017年から活動を再開。
そんなAwichの音楽制作を支えたのは、同じ“YENTOWN(イエンタウン)”というクルーのメンバーでもある“Chaki Zulu(チャキズールー)”でした。
ヒット曲を連発し共にシーンのTOPへの登っていったAwichとChaki Zulu。
2020年にユニバーサルミュージックからメジャーデビューすると、さらに活動のスケールを広げて活躍。
「日本武道館」や「Kアリーナ横浜」でのライブを成功させ、現在ではTV番組にも出演するなど一般層にまで届くアーティストに成長しました。
そんな彼女の次なる目標は「グラミー賞を獲る」というもの。2024年から本格的に世界進出に向けた活動を始めています。
すでに世界からの注目も集まっていて、US版『GQ』では次の世界的ヒップホップスターとして特集を組まれました。
米版『GQ』が報道した、次の世界的ヒップホップスター、Awich
これからどこまで行くのか非常に楽しみな女性ラッパーが、Awichです。
JP THE WAVY
次に紹介するのは、現代的なラッパーのあり方を体現する“JP THE WAVY(ジェイピーザウェイビー)”です。
2017年に全くの無名の存在から一本のMVがバズりシーンに現れたJP THE WAVY。
この中毒性の高い楽曲に“Cho Wavy De Gomenne”という謎の歌詞、斬新なファッションに街中で踊りまくる謎の男たちを写したMVが話題に。
SNS上に真似して自分たちでダンスした動画を多くの人があげ、それでさらにバズが加速するという、今TikTokで起きているような現象の先駆けとなりました。
さらにこの楽曲を気に入った人気ラッパー“SALU(サル)”が加わったRemixバージョンが公開されると、この年1番の特大ヒットに。
JP THE WAVYは踊れるラッパーという新たなラッパー像を確立した点も特筆すべきポイントです。
JP THE WAVYはもともと中学からHIPHOPダンスを始め、クラブなどで本格的に活動していたダンサーでした。彼のステージでは多くのバックダンサーを率いての“コンセプチュアルなショー”のようなライブが楽しめます。
もちろんこれまでにもバックダンサーを率いてライブをしたラッパーも、自らダンスも出来るラッパーも存在していました。
しかしこれほど確率したスタイルとして打ち出したラッパーはいませんでしたし、何よりここまで魅せるショーとして完成されたステージをしていたラッパーはいません。
今では彼以外にもダンスを加えたコンセプチュアルなショーとしてのライブを行う若手ラッパーが、年々増えてきています。彼の与えた影響が大きいのは間違いありません。
また、彼のもうひとつ特筆すべきポイントは、シーン随一の“ファッショニスタ”だという点です。
元アパレル店員で大のファッション好きの彼は、さまざまな最先端のブランドやアイテムを着こなしステージに上がり、InstagramなどのSNSにも頻繁に自分のファッションを上げています。
稼いだお金を使って様々なファッションで魅せ、憧れの存在として輝く。夢を見せる職業のラッパーとして姿を、JP THE WAVYは体現しています。
¥ellow Bucks
“これぞラッパー”といったスタイルで現在のシーンの顔となった、“¥ellow Bucks(イエローバックス)”。
目まぐるしくトレンドが変化するヒップホップシーンにおいて、¥ellow Bucksは自分が好きなヒップホップの美学を信じてブレることなく着実にスターダムを上がって行きました。
ラップをスピットし続ける彼のスタイルは、メロディアスに歌うようなラップが増えている今、ひときわ輝きを放っています。
1996年に岐阜県高山市で生まれた彼は自ら“ヤングトウカイテイオー”を名乗り、偉大な東海のラッパーであった故・TOKONA-Xのレガシーを受け継ぎ、東海のヒップホップのDNAを次の世代に繋いでいくという意思を示しています。
TOKONA-X(トコナエックス)=東海のシーンを代表した伝説のラッパー。2004年にソロアルバム「トウカイXテイオー」をリリース後、26歳で急逝。代表曲に“知らざあ言って聞かせやSHOW”や“WHO ARE U?”などがある。
若手の人気ラッパーは数多くいますが、彼のように文脈を持ちかつそれを全面に出してカッコよく成立しているラッパーは他にはいません。
90'sの音楽好きで、地元のローライダーの友人とよくつるんでいる彼の楽曲は、車に乗りながら聞くのにピッタリのものばかりです。
「俺は普通にヒップホップがしたいだけ」と語る彼はこれからもブレずにラップをスピットし続けるのでしょう。
LEX
次に紹介するラッパーは、2002年生まれの“LEX(レックス)”です。
まだ20代前半、キャリアわずか数年の若手をこのリストに入れる。通常では考えられないのですが、選ばざるを得ないほどの天才がLEXというラッパーです。
抜群のメロディセンスとメロウな声を持つLEXは、ラップからビートメイク、ミックスまでを全て1人でこなしてしまします。
14歳の時に独学で機材をそろえビート作りを始めたLEXは、2017年からSoundCloudに楽曲を発表するようになりました。
XXXTentacionが好きだったという初期のLEXは、彼のように衝動的で破壊的な楽曲から、甘くどこか切なく感情に訴えかけるような幅広い音楽性の楽曲で若い世代から支持を受けてきました。
2019年4月、16歳で1stアルバム「LEX DAY GAMES 4」で衝撃的なデビューを果たすと、2ndアルバム「!!!」、3rdアルバム「LiFE」と爆発的な勢いでリリースを重ね、10代にして人気ラッパーの仲間入りを果たしました。
2021年にJP THE WAVYを客演にむかえた”なんでも言っちゃって”がバイラルヒット。
2022年には並いる候補者の中から「Space Shower Music Awards Best Hip Hop Artist」に選ばれ、19歳にしてヒップホップ界の頂点に。
2024年には大型ヒップホップフェス「POP YOURS」のヘッドライナーに選ばれ、21歳にして「ラップスタア2024」の審査員もつとめました。
これまでに6枚のアルバムをリリース。人気評価ともに頂点を極めたLEXは間違いなく日本のヒップホップ史に残るラッパーです。
Watson
最後の20人目に紹介するのは、徳島出身の若手ラッパー“Watson(ワトソン)”です。
「LEXはまだしも、2022年にブレイクしたばかりの若手をここに入れるのは流石にどうなの?」
そんなふうに思う方もいると思いますが、Watsonはすでに日本語ラップの新たな表現を生んでいて、かつこの先も長く活躍するラッパーだと確信しているのでこのリストに入れました。
若手の中にはWatsonのスタイルを真似する“Watson系“と呼ばれるラッパーが既に続出しています。
Watsonがもっとも影響を受けたと語るKOHHがシーンに現れたときに、彼のスタイルを真似するフォロワーが大勢あらわれました。そこから10年以上たった現在のシーンで同じような現象が起きています。
フォロワーを大勢生んだWatsonのスタイルとはどのようなものでしょうか。彼の人気を決定づけた楽曲“reoccurring dream”から引用して、一番の特徴である歌詞を見てみましょう。
「次買うICEはvvs それかチョコミントかストロベリー」「四六時中ずっと触ってるちんちん でもやな事触れない」「俺の友達野菜なら食べれない だけど巻いてるcannabis」
“reoccurring dream”より
言語遊戯的パンチラインで埋め尽くされた歌詞。そうなふうに表現したくなる程、Watsonの書く歌詞はユーモラスなパンチラインであふれています。
ライン1つごとに「上手いこと言った!」と言いたくなる見事なオチを細かくつけながら進む、Watsonのリリック。
ラッパーと言えば「いかにカッコつけるか、どれだけ悪ぶるか」が定番ですが、Watsonはカッコつけず日常生活をさらけ出す庶民的な魅力に満ちています。
「路地裏でパフパス 俺のばーちゃんのエビフライはサクサク」
“Hood Star”より
不良感のある前半とかわいい後半という、ギャップのある組み合わせもWatsonのスタイルの特徴です。
どんなに内省的、ドラマチックになりそうな内容を歌っていても、下ネタやユーモアを入れ脱臼させ、感動的にし過ぎないのも特徴でしょうか。
他にも耳に残る特徴的な声や、↑の楽曲なんかで顕著な“促音と呼ばれる「っ」という音を多用するフロウでdrillビートの変則的なドラムの位置に対応している”、など他にも指摘したいポイントはありますが、スタイルの核はやはり歌詞です。
Watsonのブレイク以降、あきらかにこのスタイルに影響を受けた若手が次々と現れましたが、うまく体現してかつ自分の個性を出せたものは一握りしかいません。
WatsonとKOHHに共通しているのは、現行のUSから影響を受けた最先端のものでありつつも、日本語ラップだからこそ可能な表現をしているという点です。
2人ともそういう1つの理想の形を体現できたからこそ、絶大な支持を受けているのではないでしょうか。
2024年には、2ndアルバム「Soul Quake 2」をリリース。
売れに売れた現在も、遊びよりも制作を優先させ楽曲を量産。ラップもますます上手くなり、ライブパフォーマンス力も非常に高いものを持っています。
現在売れている若手ラッパーが5年後、10年後どれだけ残っているのかはわかりませんが、Watsonはその時も精力的に活動しているでしょう。
まとめ
この記事では日本のヒップホップシーンにおいて重要なラッパーを20人(組)紹介しました。
40年以上の歴史から厳選したので、どのラッパーも本当にシーンにとって欠かせない人たちばかりです。
まずこのメンバーから押さえておくと、日本のヒップホップ史が理解しやすくなると思います。
他にもさまざまな記事を出しているので、興味のあるものからチェックしてみてください!